クリスティーハーフ医師 Christy Huff, MD, FACC
『わたしは殺人事件を報告したい。それは計画されたものだ。殺人犯の名前、わたしはその名前を知っている。友人であった。いつも一緒だった。しかし、わたしは裏切られた。
人生がたのしい。わたしはよく彼にそう言ったものだ。しかし彼はわたしを自分の車の後部座席に乗せてわたしの人生を支配していたのだった。ゆっくりと彼はわたしのすべてを乗っ取っていき、わたしの人生の中核に居座った。そしてついにわたしが人生を終わらせること以外自分自身ではどうにもできなくなった時、彼はナタをふるった。彼の名はAtivan(訳注:ロラゼパム・ワイパックス)。危険だ。気を付けてほしい。やつは卑劣ですらある。覚えていてほしい。これは殺人だ。わたしにはできることが本当に何もなかったのだ!(訳注:zero choice)。わたしにできることは少々死を遅らせることだけだった。死ぬのに都合の良い時というのはない。だがわたしはAtivan氏をいくらかコントロールする必要があった。彼は非常に傲慢でうまい話し手だ。じつに説得力がある。「苦しむことに意味などありませんよ…云々」
わたしはこの問題になんら幻想を持っていない。ただ必死に生き残り、世界中が(ベンゾについて)つぎつぎと明らかにしていくことを見守りそれを楽しみたい。それだけが唯一の望みだ。だが望みは叶わず。人生は甘くない。』
マーシャの父の人生は、ロラゼパムを処方されたために破壊されました。マーシャはBenzodiazepine Information Coallitionに連絡を取り、父親の自殺ノートを共有し、ベンゾジアゼピン処方薬の危険性に対する意識を高めたいと考えました。彼女は、「私の父は死にました。2015年、首つり自殺です。クリスコーネル(サウンドガーデンのシンガー)と同様、不安のためにロラゼパムを服用していました。 私は父の自殺ノートをシェアする義務を感じるのです。この手紙がみなさんにとって意味のあるものならば、ぜひシェアしてほしい。」
マーシャの父親は、ベンゾジアゼピン離脱症候群との闘いの後、2015年4月に68歳で亡くなりました。彼は自殺する2~3年前に不安症状のためロラゼパムを処方されました。そのため重篤な離脱症状を発したのですが、けしてそうとは認められず、従って医療サポートはまったく受けることができなかったのです。 彼は数えきれないほど断薬を試みましたが、そのたびに失敗しました。彼はいわゆる“中毒”(訳注:addict)ではありません。しかしそういったリハビリテーションプログラム(訳注:依存専門施設)に何週間も通っては、数多くの精神科医に診てもらいました。しかし誰も彼に助けになる手だてを持っていませんでした。ロラゼパムの恐ろしい離脱症状と、もはや手段ナシの絶望のもと、最後の1年は何度も自殺を試み、そして最終的にようやく自殺を成し遂げることができたのです。
(翻訳&注釈:ベンゾジアゼピン情報センター 管理人)
テキサス州フォートワース在住の認定心臓専門医。ダラスのテキサス大学サウスウェスタンメディカルスクール医学部で学び2001年にアルファ・オメガ・アルファ卒業。2004年セントルイスのワシントン大学で内科学修了。2008年テキサス大学サウスウェスタンメディカルスクール医学部で心臓病学を修了。2008年よりフォートワースで心臓専門医としてプライベートプラクティス(医師や弁護士などのフリーランサー)。2011年出産を機に退職し専業主婦。
2015年健康を害し不眠対処としてザナックス(ソラナックス・アルプラゾラム)を処方され(訳注:不眠の原因はドライアイ症候群)2~3週間の連用で常用量離脱発生。ベンゾジアゼピン離脱症状について主治医および著名な神経科医からも回答を得られず、独自に調査し自分の症状がベンゾジアゼピン離脱症候群であることをつきとめる。
地元の精神科医の助言のもと、ザナックスをバリウム(セルシン・ジアゼパム)に置換し、マイクロテーパリングでジアゼパムを漸減。自身の体験によりベンゾジアゼピン離脱症候群の厳しさとその危険性を認識することとなり、医大ではまったく教えられてこなかった事実に愕然とする。3年2か月のテーパリングをへてバリウムを断薬。断薬後1年経過した現在大きく回復。ベンゾジアゼピンの危険性と安全な減薬方法についての医師への教育、およびベンゾジアゾピン処方規制の必要性を啓蒙しつづけている。